大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和54年(ワ)2340号 判決

原告 甲野花子

〈ほか二名〉

右原告三名訴訟代理人弁護士 山浦重三

同 伊藤敬寿

被告 乙山春夫

右訴訟代理人弁護士 横山勝彦

被告 日本放送協会

右代表者会長 川原正人

右訴訟代理人弁護士 杉本幸孝

同 柳川従道

同 奥山滋彦

同 宮川勝之

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

(主位的請求)

1 被告らは、各自、原告甲野花子に対し金五〇〇〇万円、原告甲野松太郎、同甲野マツに対しそれぞれ金五〇〇万円及び右各金員に対する昭和五四年三月二九日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2 訴訟費用は被告らの負担とする。

3 第1項につき仮執行の宣言。

(被告日本放送協会に対する予備的請求)

被告日本放送協会は、原告甲野花子に対し金三〇〇万円、原告甲野松太郎、同甲野マツに対しそれぞれ金一〇〇万円及び右各金員に対する昭和五八年五月二一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  請求の趣旨に対する答弁

(被告ら)

主文同旨。

(被告日本放送協会)

原告らは、昭和五八年六月二日、本件第二〇回口頭弁論期日において、被告日本放送協会に対し、訴えを追加的に変更し、被告乙山が原告甲野花子の貞操を侵害したことにつき被告日本放送協会の使用者責任を問う旧請求に、被告日本放送協会が原告らの本件訴状の内容を原告らの実名を掲げて報道機関等に発表し、新聞、週刊誌等がこれを掲載したため原告らの名誉と信用が毀損されたことにより生じた損害の賠償を求める新請求を予備的に追加したが、右新旧請求はその背景をなす社会的事実ないし生活事実も、前法律的な利益紛争関係も全く別であるから、右訴えの変更は請求の基礎に変更がある故許されない。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  (当事者)

原告甲野花子(以下「花子」という。)は、昭和三六年A大学音楽部器楽科ピアノ専攻を卒業したピアノ演奏家であり、原告甲野松太郎(以下「松太郎」という)。はは花子の父、原告甲野マツ(以下「マツ」という。)は花子の母である。

被告乙山春夫(以下「乙山」という。)は、昭和三三年B大学法学部法律学科を卒業し、昭和三四年に被告日本放送協会(以下「NHK」という。)の職員となったもので、昭和三七年七月三一日訴外丙川春子と婚姻し、昭和四五年二月二四日には同女との間に長女をもうけたものであり、NHKは乙山の使用者であったものである。

2  (被告乙山の不法行為)

被告乙山は、花子と婚姻する意思がないのにかかわらず、花子に対し、妻と離婚して必ず花子と婚姻するように装い、花子をしてその旨誤信させ、花子に情交を迫ってその目的を遂げ、かつこれを継続して深窓育ちの花子の貞操をじゅうりんしたばかりでなく、松太郎、マツをもNHKの地位職場を利用する等して欺き通した。すなわち、以下に述べるような事実によれば、花子が乙山に妻があることを知りながら情交関係を結んだとしても、情交の動機が主として乙山の詐言を信じたことに原因しており、乙山の側における違法性が著しく大きいものと評価できるから、乙山は不法行為責任を免れるものではない。

(1) 花子は、昭和三八年一〇月頃からNHKテレビ番組「バイオリンのおけいこ」にピアノ伴奏者として出演するようになったが、乙山がディレクターとして右番組の演出にあたっていたため同人と知り合った。

(2) 花子は、昭和三九年、NHK洋楽番組「オペラ三人の女たちの物語」の練習ピアノに乙山の紹介によって出演した。そして右出演終了の頃、乙山は花子に対し「この番組が終ればあなたと会える機会がなくなって淋しい。なんとかこのように会える機会を持ち続けたい。」「俺は妻と巧くいっていない。結婚して籍は入っているが夫婦関係は全くないんだ。別居と同じだ。俺は一番不幸な男なんだ。」「妻と巧くいっているなら花子に悪いから交際はしない。花子を愛しているから花子には気の毒でない。ただ妻がかわいそうだから妻と正式に離婚できるまで待ってくれ。それまで我慢してくれ。俺が管理職になれば離婚も結婚も自由にできる。俺は出世しなければいけないんだ。管理職になれば離婚でも結婚でも何をしてもいいんだ。」などと言って言い寄った。

(3) 花子は乙山が本当に自分を理解し愛しているものと信じ、乙山のことばがまさか自分を奔ぶための甘言とは知らずに乙山を信頼し、いつかは結婚できるものと信じて乙山に心を傾かせていった。

(4) 昭和三九年九月頃のイイノホールにおけるピアノ独奏会のリサイタル等に乙山は常にNHKディレクターとして出入りし、夜遅くまで花子につきまとい、飲食を共にして花子を送迎し、その頃から原告らの家庭に出入りするようになった。

(5) 昭和四一年九月頃、乙山はNHKプロデューサーとしての出張期間中を利用して花子を東京都内のホテルに誘い、花子に対し、妻と離婚して必ず結婚するからと執拗に情交を迫りついに肉体関係を結ぶに至った。

(6) 乙山は、原告らの信頼を得る手段として、花子の弟の就職の斡旋をしたり、義弟のNHK等への出演に尽力したと称したり、原告ら宅を訪れる際にしばしば土産物を持参するなどし、松太郎、マツもNHKという放送界の権威に勤務する乙山の職場と地位を信用するに至った。

(7) しかし、乙山が花子と婚姻する気配を見せないので、昭和四六年八月頃、松太郎及びマツは乙山に対し、花子との交際を絶つこと、身辺を整理するまで原告ら宅への出入りをしないことを申し入れた。これに対し乙山は妻との離婚はしばらく待ってくれるよう述べたが身辺を整理するまで原告ら宅へは出入りしないと心にもない回答をした。そして、松太郎、マツには内密に演奏活動等にこと寄せて花子を誘い、妻との離婚話などしていないのにかかわらず、「妻が家を出た。」「妻が家庭裁判所に訴えたので弱っている。」「妻が訴えを取り下げた。」等妻との間に離婚話が進展している如く装って花子を欺き続けた。

(8) 昭和五二年七月頃、乙山は花子にチーフプロデューサーに昇進したと伝え、その頃、妻が離婚同意書に捺印したので万事解決した旨虚偽の事実を述べ、原告らを、花子との結婚が可能になった内祝と称して六本木の「美濃吉」に食事に招待した。

(9) 昭和五三年四月末頃には、乙山は花子との間の婚姻届出書二通を作成して花子に交付する等花子との婚姻を近々実行できる如く装い、その頃長女がいるにもかかわらず「自分には子供がいない。子供を作ってほしい。」等と偽り花子に対し避妊措置を止めての情交を迫った結果花子は懐胎した。

(10) そして、その頃から婚姻届のための戸籍謄本を本籍地の滋賀県米原市に取りに行く、実家の徳島にいる妻と話し合う等と告げて乙山は原告ら宅に寄りつかなかったが、同年五月二〇日頃、原告宅において、原告らに対し、妻との話し合いは不調に終わったが弁護士に依頼してあるから大丈夫と述べた。いうまでもなく、右乙山の発言は全て虚偽であったが、同年九月初旬に至り、ついに乙山はNHK内部にも花子との関係が発覚したこともあって、花子に対し「今までお前を騙し続けて一生をめちゃくちゃにさせてしまった。」と告白し以後原告らに寄りつかなくなった。

(11) 花子の弟訴外甲野一郎が乙山をNHKに訪れ責任を追及したところ、乙山は「万難を排して結婚する。出生する子供は認知する。花子の一生について身分的にも経済的にも一切の責任をとる。」との書面を作成交付してその場を凌ぎ、保身のためNHKの上司にもみ消しを依頼した。

(12) 花子は昭和五三年一一月一七日女児を出産したが、乙山は認知を履行しないため、右一郎が乙山と交渉して認知手続を了した。

(13) 原告らは、乙山を信頼していたのに、ようやく右の推移から同人に騙されていたのではないかと疑い、その家庭状況等を調査したところ、同人の過去の言動の全てが虚偽であり、妻との間に離婚話など全くなく、平和な家庭生活を営んでいた事実が判明した。

3  (花子の損害)

前項の乙山の不法行為により、花子は悲嘆の余り心因性反応に陥り、C大学及びD大学の各講師の職も失い、将来再びピアノ演奏家として音楽界に起つこともほとんど不可能となった。この結果、花子に生じた損害は以下のとおりである。

(1) 逸失利益

花子の年間収入は、C大学分六八万四八六〇円、D大学分四一万一二五二円及び演奏活動、ピアノ教授指導分八八万円の合計一九七万六一一二円であり、花子は将来にわたりその全てを失ったから稼働可能年数と新ホフマン係数表によって花子の逸失利益を算定すれば三一五〇万七一二九円となる。

(2) 出産のための入院費用 七〇万一二一五円

(3) 心因性反応の治療費(交通費を含む。) 二万五七七〇円

(4) 慰藉料 一五〇〇万円

(5) 弁護士費用 着手金 成功報酬 各一五〇万円

(6) 本訴においては右合計額のうち金五〇〇〇万円を請求する。

4  (松太郎、マツの損害)

松太郎とマツは、花子がピアノ演奏家として成長することを唯一の希望としていたところ、乙山の前記不法行為により花子のピアノ演奏家としての再起がほとんど絶望となったばかりでなく、花子が今後結婚して幸福な家庭を築くことも期待できない状態となり、重大な精神的苦痛を受けた。これを慰藉するにはそれぞれ金五〇〇万円をもってするのが相当である。

5  (NHKの使用者責任)

乙山は、前述のとおり、NHKのディレクターないしプロデューサーとして、花子のNHK出演に際し、そのきっかけを作って花子に言い寄り、花子をNHKの番組に出演せしめ、出張に際して花子と行動を共にするなど、その言動はいずれもNHKの事業に客観的に緊密な関連があるのであるから、NHKは、乙山の使用者として、同人がその事業の執行につき原告らに与えた前記各損害を賠償する責任がある。

6  (結論)

よって、被告らは、各自損害賠償金として花子に対し金五〇〇〇万円、松太郎、マツに対しそれぞれ金五〇〇万円及び右各金員に対する訴状送達の日の翌日である昭和五四年三月二九日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

7  (NHKに対する予備的請求)

(1) NHKは、本件訴状の送達を受けるや、原告らの実名を掲げてその内容を報道機関等に発表し、そのため幾多の新聞、週刊誌がいずれも原告らの実名をもってその内容を掲載し、これにより原告らの名誉と信用が著しく毀損された。

(2) NHKは、訴状の内容を原告らの実名をもって報道機関等に発表すれば、右の如き結果となることを予見しながら、あるいは少なくとも過失によって予見せずその内容を発表した。

(3) 右NHKの不法行為により、原告らは測り知れない精神的苦痛を被った。これを慰藉するには、花子につき金三〇〇万円、松太郎、マツにつきそれぞれ金一〇〇万円をもってするのが相当である。

(4) よって、仮に、NHKが前記使用者責任を負わない場合、原告らは、NHKに対し、NHK自らの名誉毀損により原告らに生じた右各損害金及びこれに対するこの予備的請求を記載した準備書面が送達された日の翌日である昭和五八年五月二一日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

(被告乙山)

1 請求原因1項の事実は認める。

2 同2項冒頭記載の事実は否認する。

(1) 同項(1)の事実は認める。

(2) 同項(2)の事実中、花子が原告ら主張の練習ピアノに出演したことは認めるが、その余は否認する。乙山がNHK職員として花子のピアノ演奏家としての仕事上接触をもったのはテレビ番組「バイオリンのおけいこ」及び同「オペラ三人の女たちの物語」を通じてのみであり、「バイオリンのおけいこ」が昭和三八年九月から昭和三九年三月まで、「オペラ三人の女たちの物語」が昭和三九年五月から六月のことであるところ、乙山が花子と個人的に交際を持つようになったのは同年秋以降のことである。

(3) 同項(3)の事実は否認する。昭和四〇年頃より花子が乙山に対し恋愛感情を抱くようになり、積極的に交際を求めてきたので、乙山も心を動かされ、交際の度が深まったのである。

(4) 同項(4)の事実中、乙山がリサイタル等に出席したことは認めるが、その余は否認する。

(5) 同項(5)の事実は否認する。乙山が花子と初めて肉体関係を持ったのは昭和四四年夏頃のことであり、この頃から花子の求めに応じて原告ら宅に出入りし、松太郎、マツとも親しく交際するようになった。そして、昭和四六年頃から花子が乙山に妻と離婚して自分と結婚するよう強く迫るようになり、乙山も花子との結婚を真剣に考えるようになった。

(6) 同項(6)の事実中、乙山が花子の弟の就職の斡旋をしたこと、花子の義弟のNHK出演に尽力したこと及び原告ら宅訪問の際しばしば土産物を持参したことは認めるが、その余は否認する。

(7) 同項(7)の事実中、昭和四六年八月頃乙山が松太郎、マツから花子との結婚が決まるまで原告ら宅への訪問を遠慮するよう言われて了承したことは認めるが、その余は否認する。乙山が花子と再び交際するようになったのは、花子の方から友人を介して再会を求めてきたからであり、昭和四七年から従来どおりの交際が続いた。そして、花子は、昭和五〇年頃から乙山に対し妻との離婚を更に強く迫るようになった。乙山は、花子と将来結婚する意思に変わりはなかったので、花子との仲が壊れることをおそれ、妻とは同じ家に住みながら夫婦らしい生活を営んでいないなどと言って花子の気を紛らせることはあった。

(8) 同項(8)の事実中、乙山が原告らを「美濃吉」に招待したことは認め、その余は否認する。昭和五二年七月頃、乙山はチーフディレクターからチーフプロデューサーに担務変更になったこともあり、妻との離婚を決意し、それに要する期間を約一年と考え、昭和五三年中には解決したい、妻との離婚のめどがついたと花子に話した。

(9) 同項(9)の事実中、昭和五三年四月末頃、乙山が花子との間の婚姻届出書二通を作成交付したことは認めるが、その余は否認する。右届出書は、原告ら宅において、花子の弟一郎を介して署名を求められたので、近い将来必要であると考え応じた結果作成されたものである。

(10) 同項(10)の事実中、乙山が、昭和五三年五月初旬、妻と離婚の話し合いをすると言ったこと、同月二〇日頃、原告らに対し妻との離婚の話し合いが未だつかないと述べたことは認めるが、その余は否認する。

(11) 同項(11)の事実中、昭和五三年一一月頃乙山が原告ら主張の書面を作成交付したことは認めるが、その余は否認する。

(12) 同項(12)の事実中、原告主張のとおり花子が女児を出産したこと、乙山が認知したことは認めるが、その余は否認する。乙山は現在まで原告らから右出生を知らされていない。認知は、昭和五三年一一月末、一郎に頼んでその用紙を準備してもらい署名捺印して同人に交付して履行した。

(13) 同項(13)の事実は否認する。

3 請求原因3、4項の事実は不知。

《以下事実省略》

理由

一  花子が昭和三六年A大学音楽都器楽科ピアノ専攻を卒業したピアノ演奏家であり、乙山が昭和三三年B大学法学部法律学科を卒業し、昭和三四年にNHK職員となったものであること、乙山が昭和三七年七月三一日訴外丙川春子と婚姻し、昭和四五年二月二四日には同女との間に長女をもうけたことは当事者間に争いがない。

二  (花子と乙山の交際の経緯)

花子が昭和三八年一〇月頃からNHKテレビ番組「バイオリンのおけいこ」にピアノ伴奏者とりして出演した際乙山がディレクターとして同番組の演出にあたっていたため両名が知り合ったことは当事者間に争いがなく、《証拠省略》を総合すると次の事実が認められる。

すなわち、

(1)  花子は昭和一二年八月一〇日生れであり、乙山は昭和九年六月二五日生れである。

(2)  「バイオリンのおけいこ」は昭和三九年三月に終了したが、乙山が花子をNHKの上司に推薦した結果同年四月頃よりNHKテレビ番組「オペラ三人の女たちの物語」の練習ピアノに花子が出演することになり、花子は乙山が自己に好意を示してくれたと受けとった。そして、昭和四〇年初め頃から両名は私的な交際を始め、乙山は花子に対し妻との関係が巧くいっていない、別居も同然である、結婚してほしいが正式に離婚できるまで待ってくれ、管理職になれば離婚も自由にできる等と話し、花子への愛情を吐露した。

(3)  乙山と花子は昭和四一年秋頃東京都内のホテルで初めて肉体関係を持つに至った。この関係は昭和五三年まで継続したが、この間、乙山は、原告ら宅へ出入りし、花子の父松太郎、母マツら家族とも深く交際し、弟一郎の就職の斡旋をするようなこともあった。昭和四四年から、花子はC大学の非常勤講師となったが、その勤務の際に乙山も名古屋方面でのNHKの仕事がある時などには名古屋で同泊する等して交際を重ねた。

(4)  花子は、乙山の自己に対する好意を感じ、また同人がNHK職員で尊敬できる人物でもあると思えたことから、徐々に同人に惹かれていった。両名が初めて肉体関係を持つ以前に、花子が仕事先の宮崎から乙山に対し、同人への愛情を吐露した手紙を出すようなこともあった。右手紙には、自分には乙山の生活や仕事を壊す権利はないし、そんなことは許されるはずがない旨の記載がある。

(5)  花子は、ピアノ演奏家という職業を持つ関係上結婚自体を強く望んでいたわけではないが、乙山への愛情及び同人からの求婚によって徐々に同人との婚姻を望むようになった。しかし、乙山は、花子との結婚を希望していることを述べる一方で、妻が離婚する気になるまで花子に辛抱してもらうと述べるなど確乎たる態度はとろうとしなかったため、花子は、乙山の離婚が不可能ならば結婚できなくてもやむをえないと考えたり、やはり結婚したいと思ったりするという不安定な心理状態を繰り返していた。そして、乙山に対し、妻と離婚するのか否かはっきりしてほしいと述べることもあった。

(6)  松太郎とマツも乙山と花子の関係に苦慮し、昭和四六年には、乙山に対し、身辺を整理するまで花子との交際を絶ち原告ら宅へも出入りしないよう告げ、乙山も一旦これに応じたが、まもなく松太郎らに隠れて花子と会うようになり、結局は再び原告ら宅へも出入りするようになった。

(7)  昭和五〇年頃には、花子から態度を明確にするよう迫られたりしたこともあって、乙山は花子に対し、妻との離婚話は進展しているとか、妻が家を出たなどと虚偽の事実を述べその場を取繕ったりすることがあった。そして、昭和五二年九月には、原告ら宅へ架電して妻との離婚が成立したと虚偽の事実を告げた。更に、昭和五三年四月二九日には乙山と花子は婚姻届書を作成し、乙山はこれを花子に交付した。

(8)  乙山の妻は昭和三三年から昭和五〇年までNHK職員として勤務しており、花子もこの事実を知っていた。しかし、原告らは昭和五三年秋まで、乙山の妻に対し、あるいは第三者を通じて乙山と妻との婚姻生活の実態を確認しようとしたことはなかった。乙山と妻との間では、離婚話など全くなされてはいなかった。

(9)  昭和五三年五月初め、乙山は花子が妊娠した事実を知らされた。そして同月二〇日頃、原告らに対し、妻との離婚の協議は不調に終ったが、弁護士に依頼してあるから大丈夫である旨告げた。

(10)  同年九月初め、乙山は花子に対し「お前を騙して一生をめちゃくちゃにした。」と告げた。その後、乙山との接渉は前記一郎が行ない、同人は乙山から、出生する子は認知する、花子と必ず結婚するとの記載のある誓約書を徴したり、同年一一月一七日花子が女児を出産したのち、乙山に認知手続を履行させたりした。

(11)  乙山は、本件花子との関係が原因で昭和五四年三月NHKを退職した。原告らは、同月一四日本訴を提起したが、乙山と花子は昭和五三年秋以降直接の接触は持っておらず、乙山は原告らから花子の出産も知らされず、現在まで認知した子の顔を見せられていない。しかし、右子のため毎月二万五〇〇〇円の養育料を花子に支払っている。

《証拠判断省略》

三  (乙山の不法行為責任の成否)

そこで、右の認定事実に基づいて乙山に貞操侵害に基づく不法行為責任があるか否かについて判断する。

乙山が妻との関係は破綻している、妻と別居した、離婚話が進んでいる、遂に離婚が成立した等と申し欺いて花子との関係を一〇年余にもわたり継続したことは十分非難に値するものというべきである。しかし、両名が私的に交際を始めた当時、花子は満二七歳に達しており思慮分別を備えていなかったとは認め難く、事実、乙山と初めて情交関係を持つ以前から乙山の妻の立場を強く意識し、また乙山との関係を継続中、同人の態度に疑問を抱いて同人に明確な態度をとるよう求めているのであって、乙山を愛するあまり同人の言を一途に信じたいという心理が働いた結果であるにせよ同人が既婚者であることを知りながら情交関係を結びこれを継続させたことは極めて軽卒な行動であるとの誹を免れない。しかも、乙山は、交際期間の当初は、妻との離婚及び花子との結婚は将来の、かつ乙山の妻の意思にかかる問題であるという慎重な表現方法を用い確定的な事実としては述べていない(このこと自体は卑怯であると評価できるかもしれない。)のであって、花子が、一片の不安も持たず、乙山と間違いなく婚姻できると信じて同人と情交関係を結びこれを継続したものとはとうてい認められない。乙山が昭和五〇年以降妻との関係につき重大な詐言を用いるに至ったのは、花子との関係が絶たれるのをおそれ、同人の結婚の願望にこたえる動機に出たものと推認することができる。そして、乙山が性的享楽を目的としてのみ花子に接したのではなく、精神的にも真実花子に愛情を抱いていたことは、両名の関係の継続期間等に照らし疑う余地のないところである。

以上の認定、判断及び乙山、花子の年令、経歴、両名が知り合ってから初めて情交関係を持つに至るまでには約三年の期間の経過があること、初めて情交関係を持つに至った動機、その後の経過、両名の関係は花子の家族らは知り又は知りうべきであったが、乙山の妻には極力発覚しないよう花子らも協力してきたこと、原告らにおいて乙山の家庭状況の調査を行なおうとしなかったこと、乙山は花子が出産した子を認知し、養育料も支払っていること等の諸事情を考慮勘案すると、乙山の詐言がなければ花子との間に情交関係は生じなかったであろうとは言うことができても、花子が情交関係を結んだ動機が主として乙山の詐言を信じたことに基因するとまで言いうるかは疑問であり、右関係を生じるに至った責任が主として乙山にのみあるとは断定できないし、情交関係継続の責任は乙山と花子の共同責任であると言っても過言ではない。したがって、花子の側の情交関係誘起及びその継続の動機に内在する不法の程度に比し、乙山の側における違法性が著しく大きいものとはとうてい評価することはできず、このような情交関係による貞操権侵害を理由とする損害賠償請求は、民法七〇八条の法の精神に反するものとして許されないというほかはなく、本件全証拠によるも右判断を左右するに足りる事情を見い出すことはできない。そうすると、原告松太郎、同マツの被告乙山に対する請求及び原告らの被告NHKに対する使用者責任に基づく請求も失当と言わざるをえない。

なお、乙山と花子の情交関係は両名間の私事であって、NHKの事業の執行過程で両名が知り合ったことが右関係の契機になったとはいっても、右関係自体は時間的、場所的にもNHKの支配が不可能であることはいうまでもなく、特別の事情のない限り右情交関係についてNHKが使用者責任を負うことはないと解するのが相当であるところ、本件においては右特別の事情を見い出すことはできない。

四  (訴えの変更の許否)

原告らは、仮に被告NHKが前記使用者責任を負わないとすれば、NHKが本件訴状の内容を原告らの実名を掲げて報道機関等に発表し原告らの名誉と信用が毀損されたことにより生じた損害の賠償請求を追加する旨申し立て、NHKは右訴えの追加的予備的変更は請求の基礎に変更があるから許されないとその不許を申し立てている。

そこで検討するに、旧請求は昭和四〇年頃から昭和五三年にわたり乙山が花子の貞操を侵害した継続的不法行為につきNHKの使用者責任を問うものであるのに対し、新請求は、本訴提起後の昭和五四年三月頃、原告らが乙山及びNHKを被告として花子に対する貞操侵害を理由とする損害賠償請求を求める訴状の内容をNHKが報道機関等に公表して原告らの名誉、信用を毀損したことに基づく損害賠償請求であることが明らかである。右両請求はともに乙山と花子の情交関係に関わるものであるという点において関連がないとは言えないが、被告の責任原因、被害者の被侵害利益、直接の加害者、不法行為の時期、その態様等において全く別個のものであり、しかも乙山の不法行為責任の判断と関わりなく新請求の当否を判断できるものであって、新旧両請求の訴訟資料の間には、審理の継続的施行を正当化するに足りる一体性ないし密着性があると言うことはできず、右訴えの変更は請求の基礎に変更があるので許されないと解するのが相当である。

五  よって、原告らの請求はいずれも理由がないから棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 前坂光雄)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例